神医 華佗伝 三国志の医師


                     今村隆神鍼 著

 名医華佗かだは字(あざな)を元化(げんか)といい、沛国(現在の中国南部安徽省勃県)の人である。ここより徐州一帯に師を求め学び、多くの経書(中国古代書)に通じていた。沛国の宰相の陳が彼を考廉に推挙し、太尉の黄が彼を官職につかせようとしたが、すべてこれ等を受けなかった。
 華佗は養生の道に明るかったので、彼を知る当時の人々は彼がすでに百才位ではないかと思っていたが、外見はまだ四十才代にしか見えなかったという。
 又薬に通じていて、彼が疾病を治療するのに用いる方剤の組成は数種類の薬物の範囲を越えることはなく、彼の頭の中にはそれ等草薬の組み合わせと分量がはっきり記憶されていたので目分量で量り、天秤でそれらを量る必要がなかったという。よって患者は水を加えて煮て飲むだけでよく、華佗はその方剤の禁忌や飲み方を病人に教え、立ち去った後に病はすぐ全快するという具合だった。
 華佗がお灸を用いる際もその穴位(つぼ)は1、2カ所を越えることなく、またお灸の壮数も7、8壮を越えることなく、病はみるみるうちに治っていった。
、また鍼を用いるときもその穴位は1、2カ所を越えず、華佗はよく鍼を病人に刺すときにこう言っていたという。
「この鍼の刺激感が身体の悪いところまで来たと感じたならばすぐに知らせよ。」
そこで患者が「先生来ました。」というと華佗はすぐに抜鍼し、患者の病もすぐに治ったという。
 またもし疾病が体内奥深くに長期にわたり積み重なり、結ばれていたなら、鍼灸や薬の効果もそこまでは及ばないので彼は自ら手術した。
 病人に彼の発明した麻沸散(曼陀羅華、という植物を主成分とした麻酔薬で江戸時代日本の和歌山の華岡先生がこの方法を用いて乳癌の手術をした事で有名。)を酒で服用させると、すぐに酒に酔ったように人事不承に陥り何の感覚もなくなり、全身麻酔下で皮膚を開き破り病巣を切除した。、
 彼は疾病がもし腸の部位にあったなら患部を取り出し、それを薬液で洗い病巣部を切除し再び縫合しなおし、さらに腹部の傷口を縫合し創傷の癒合を促進させるため神膏と呼ばれる薬を塗布した。その後4、5日で患者の病状は好転し1カ月以内に患部は癒合し手術は成功したという。
 ある時郡主の部下で下級官吏の兒(ニイ)尋と李延が一緒に華佗の所に治療を受けに来た。二人とも頭痛、発熱があり、罹った病もちょうど同じであった。、
その時華佗曰く「兒尋さんは内実である、李延さんは外実である。よって彼らを治療する方法もちがうのだ。」とこの様に言い、すぐにちがう薬を選び分けて二人に与えた。次の日の朝には二人とも病はすでに全快していたという。

またある時、華佗が道を歩いていると喉がつまって、食べ物を食べたいのだが飲み込めない、という一人の病人に出くわした。彼の家族はその病人を車に乗せ医者に行く途中だった。華佗はこの病人の苦痛に満ちたうめき声を聞くと車を前に止めさせ診察し、そして病人にこう言った。
「さっきあなた方がやってきたこの道沿いに一軒の餅(ピン中国のお好み焼きのようなもの)を売る店がある。そこにニンニクのすりつぶしたものとお酢があるのでこれを一緒にして三升服用しなさい。そうすれば病気はすぐ良くなるでしょう。」、
 すぐさま華佗が言ったようにすると病人はすぐ蛇のように大きな寄生虫を吐き出した。それから彼等はそれを車の端に引っかけお礼を言おうと華佗の家に向かった。

 さすがに華佗はまだ家には戻ってはいなかったが、彼の息子が華佗の家の門の前で遊んでいた。この息子は人が来るのを見つけるとまるで独り言のようにこう言った。
「たぶん僕達のとうさんに出くわしたな、車に引っかけてある寄生虫でそれがわかるよ。」
 さて息子の案内でこの病人一行が家の中にはいると華佗の家の北の壁にはなんと、この蛇のようなおどろおどろしいしろものが十数匹も掛けてあったそうな。(下した寄生虫かそれとも薬用の本物の蛇だったのかも?)
 ある時、またとある郡主が病を患った。華佗はこの病人は一度おおいに怒り狂うと
よくなると考え、彼から多くの治療費の金銀を受け取りながらもいっこうに治療しなかった。そしてあげくのはてにこの郡主のもとをだまって去り、さらに彼をおおいに馬鹿にして、ののしった手紙を残していった。これを見てこの郡主はさすがに大いに怒り狂い、人をやってこの華佗を追いかけ捕まえて殺せと命じた。ところがこの郡主の息子は華佗のこのはかりごとをすでに知っていて華佗と通じていたので 父の部下に華佗を追いかけて行く必要はない、とこれをさとした。郡主の怒りはついにここに頂点をきわめた、まさにその時、彼はどす黒い血を数升も吐き出したのだった。それからしばらくたって郡主の病気は治癒したのである。

 またある医官の長がある日、気分が悪くなった。華佗がこれを診て曰く。
「先生の病気の根はかなり深いところにありますので、腹部を切開しなければなりません。しかしもしこれをやっても先生の寿命は天寿によってこの10年を越えることはないでしょう。ですからその10年のうちにこの病気が先生を死に至らしめることができなければ、この病気を先生は今後十年ずっと我慢しなければならないことになります。ところがあなたの天寿と病死する時期が一緒になっているので、わざわざ腹を断ち割って手術する必要もないかと思いますが、、、。」
しかしこの医官はもうこれ以上病気の苦痛に耐えられなかったので、開腹手術を要求した。華佗はついに手を下してこの病気を治し、疾病自体は全快したが、しかしそれより10年後ついに彼は自身の寿命で死に至ったという。

 広陵の太守の陳登という者が病気になった。胸中が煩悶し、顔が赤く、食欲がない。華佗は彼の脉をとり、しばらくしてこう言った。
「太守閣下の胃の中に幾升かの寄生虫がおります。将来これ等は放っておくと腹部に潰瘍を形成するに至りましょう。これは生の魚の肉を食することによって引き起こされたものです。」
 こういうとすぐに二升の煎じ薬を配合して、まず一升を服用させしばらく時間をおいて更に全部を服用させた。さてその後食事を食し終えるほどの時間がたった頃 (20分から30分ぐらいであろうか)彼は3升ほどの寄生虫を吐き出した。その色は赤くまだうごめいており、その半身は赤身の魚肉を千切りにしたものに似ていた。これにより太守の病苦は取り除かれ、そのあとで華佗はこう言った。
「この病気は三年後に又発病します。良い医者に出会えれば救うことが出来ますが・・・さもなくば・・・。」
さて三年後華佗の言った通り発作が起こったが、その時華佗は太守のもとにいなか
ったので彼は華佗の言ったとおりに病死してしまった。


 さて三国志で有名な魏の曹操がこのような華佗の名声を聞きつけ
「すぐに華佗を呼んで、いつもワシのそばにおくように。」
と部下に命令した。
曹操は頭風(偏頭痛)という病を患っており発作が起こる度に難儀していたが、華佗が鍼で膈兪穴(足太陽膀胱経)を刺すとすぐに発作はおさまった。

その後、李将軍の妻の病気が重く、その時強く華佗の往診を望んだ。
往診に来た華佗曰く。
「閣下、これは流産ですが胎児がまだ子宮内にあります。」
将軍はこれはおかしいと思い。
「聞くところによると流産は流産だが胎児はもうすでに出ているという事だが・・・。」
「しかし脉象を診る限り胎児はまだ子宮内です。」
「それはおかしい。」
李将軍は華佗を信用しなかったので、華佗はこの場をただ離れるしかなかった。
華佗が帰って後、李将軍の妻の病気は幾分か良くなった。
しかし百数日後、又発作がおこり華佗が呼ばれた。華佗曰く
「この種の脉象は胎児が子宮内にあり、双子であることを示すものです。まずひとり目の胎児が出たときは出血が多く、その後のあと一人はまだ出ていません。奥様はご自分でも気づかれず、まわりの者も気づかなかったので出産を終わってしまったのです。それで後の一人は出てくることが出来なかったのでしょう。おなかの中で死に絶え、血もそこにめぐりませんでしたので乾燥して子宮の中のちょうど腰椎の内側に付着し、これ等がキリキリ腰背部を苦しめたのです。今煎じ薬を早急に与え鍼灸治療を施せば、この胎児は必ず出てくるに相違ありません。」とこう言った。
婦人が薬を飲み鍼灸治療を受けると、出産の時のような激痛が腹部を襲った。
「この胎児は乾燥してだいぶ時が経っていて自分で出てこられないので、この様なものは必ず人の手を借りなければならないものです。」
と言うとそれを自分の手で取り出した。
見ると一つの死んだ男の子の胎児であった。手足は完全で顔色は真っ黒、大きさは大体一尺位あったという。


 有名な華佗の卓越した医療技術は凡そこの様なものであった。彼はもともと中国の古典書の学術の人であったが、人々は彼のことを医者として認識していた。この事については華佗はいつも後悔していた。

 後に曹操が自ら国事を処理しはじめて、病気を患いそれが重くなったとき、華佗にもっぱら診察をさせた。華佗曰く
「この病はすでに治癒不可能な領域に達しております。いたづら治療しても歳月のみを費やすだけです。」
華佗は長い間自分の家を離れていたのでとても家に帰りたくなった。それで曹操にまたこう言った。
「実は今、自分の家からの手紙を受け取ったのですが、一時ちょっと家に戻りたく思います。」
 その後、家に帰ってからも妻が病気になったとして曹操の元へ戻ろうとはしなかった。さらにまた何度も休暇を延長して戻らなかった。曹操は何度も手紙を書いて彼を呼び戻そうとしたが無駄だった。
 また郡県の役人に華佗を都に戻らすように命じた。しかし華佗は自分の技術のみを頼り禄をはむのを好まなかったのでやはり戻ろうとはしなかった。曹操は大いに怒り、部下を派遣し、もし華佗の妻が本当に病気ならば小豆を40斗やり彼の休暇も更に延ばしてやることにした。しかしもしうそを言って休暇を取って人をだましていたなら逮捕して都まで引っ立ててくるようにこれに命じた。
 しばらくして華佗は逮捕され許昌の監獄に護送され引き渡された。そののち殴られ、拷問されとうとう罪を認めてしまった。
 その時有名な曹操の軍師の荀彧じゅんいくがこう願い出た。
「華佗の医術はまさに高名であります。これはつまり人々の生命と大変関係のある重要人物といえ、この度のことは大目に見て、あまりお怒りなきよう。」しかし曹操はこう答えた。
「天下にこの様な卑しい人物を見たことはない。」
といい華佗を獄中で死なせてしまった。華佗はその臨終の時一巻の巻物を取り出し獄吏に渡しこう言った。
「この本は人命を救う物である。」
 しかし獄吏は曹操の怒りを恐れてこれを受け取ろうとはしなかった。華佗もむりにこれを受け取らせようとはせず、しかたなく火を持ってこさせこれを焼いてしまった。いつもこの様に重要な医典は失われるのである。
 華佗の死後、曹操の持病の頭風は未だに除かれていなかった。曹操は言う。
「華佗はこの病気を治すことは出来た、しかし奴はワシのこの病気を治療せず残しておき、自分の価値を高めようとしたのだ。もし俺があいつを生かしておいても、奴は最終的には俺のこの病の病根を絶つことはしなかったろう。」
 しかし後に彼の愛児である倉舒の病気が重くなったときにため息をついてこうも言ったという。
「ワシは華佗を殺した事をいまもって後悔している。この子を黙って死なせるしかないとはのう、とほほ、、、。」

 華佗が曹操に仕えてから最初の頃、軍人の李成が咳嗽病を患い昼夜眠れず、更に時々膿血を吐いた。この種の病状を華佗に聞いたところ、
「あんたの患ったのは腸瘍(虫垂炎)である。咳が出たときに吐き出した膿血は肺の中からの物ではない。私が貴方に2銭、粉末の薬をあげるので、これを飲んだら2升の膿血を吐くでしょう。これを吐き終わった後すぐに気持ちよくなります。こののち良く養生して1カ月後に病状は好転し1年は健康に過ごすことが出来ます。18年後にまた1回小さな発作があるかもしれませんがこの薬を飲んだらすぐに全快します。しかしもしこの薬がその時なければただ死ぬのを待つばかりという事になります。」といって更に2銭の薬を彼に渡した。
 李成が薬を得て後5、6年の後彼の親戚の一人が李成とまるでうりふたつの病気を罹った。彼は李成にこう言った。
「あなたは今身体がこの様に元気であるが、私はもう死にそうである。あなたはどうして非情にも自分は病気でもないのにその薬を隠して私の死ぬのをただ見て見ぬ振りをされているのか。どうかそれを私に先に飲ませて下さい。病気が良くなったら、華佗に言ってそれを再び手に入れましょう。」
 ついに李成は薬を彼に与えた。それから彼は華佗の消息を尋ねまわり、すぐにとある地方の県に行ったが、そこでちょうど華佗が曹操に逮捕されるのに出くわした。あわただしさの中、非情にも華佗に薬をくれとはいえなかった。18年後、李成の病気の発作がついにやってきた。しかし薬がなかったのでついに彼は死んでしまったという。

広陵の呉普ごしん、と彭城の樊阿はんあ、は皆華佗に医学を学んだ者である。

 呉普は華佗の治療法により多くの病人を救った。華佗は呉普に言う。
「人体は運動を必要とするものだ。ただ余り過度であってはならないだけである。いつも動きまわっていれば、五穀精微の気(穀物中の栄養分)は消化吸収され、血脉は流通し疾病が発生するなどと言うことはないはずである。そうであろう。たとえて言うなら家の大きな門の蝶番はいつも動いているのでさびたり朽ち果てたりはしない。これと同じ考え方である。この様に長寿であった古代の人々はすでに気功のような体を鍛える方法を作り上げていたのだよ。
 いわばそれは四肢を熊のように動かし、頭を鳥のように振り、腰を伸ばし各種関節を動かし老化を防止する体操のひとつだな。五禽戯(ごきんぎ)と呼ばれるこの方法は一つは虎戯、二つ目を鹿戯、三つ目を熊戯、四つ目を猿戯、五つ目を鳥戯とよび、疾病を駆逐し、手足を軽く軽快に動くようにすることが出来るという古代人の運動法なのだよ。身体が少し不調であってもちょっと一つの動物の動きをまねるだけで体中から汗が出て、まるで体が軽くなったように感じるものだ。そうすると腹も何か自然に減ってきて何か食べたくなるというものだよ。」
 呉普はこの方法を自ら行い90才まで生きたという。死ぬまで耳も目もはっきりし歯もしっかり全部そろっていたという。
 一方の樊阿はんあ、は鍼灸に優れていた。凡そ多くの医者は背中と胸の間は多くの重要な臓器があり、自由に鍼をすべきではなく、ここに鍼をするときには4分の深さを越えてはならないと考えていた。しかし樊阿は背部兪穴には1寸から2寸の深さまで刺すことができ、巨闕を刺すときは5、6寸の深さに達することもあったという。これらで彼は病気を次々に治していた。(これらは実際には方向によっては大変危険であるので行ってはならない。)
 樊阿は華佗に人々に有益な方剤を教えて欲しいと頼んだとき華佗は漆葉青散の薬方を授けた。これは漆葉を1升を某々14両をこの比率で用いる方剤で長くこの薬を服用していると腹中の各種寄生虫を駆除でき、五臓に気を通し、身体を軽快に保ち、ひとを白髪にさせないというものであった。樊阿はんあ、は華佗の各種方法を患者だけでなく自分にも用いていたので100才まで生きたという。漆葉(青蓁)はどこにでもあり、黄芝、地節は豊(今の中国江蘇省豊県)、沛(今の江蘇省沛県)、彭城「これ等は皆今の江蘇省の徐州一帯である」、や朝歌一帯に自生する植物である。




       針の神様、へんじゃく扁鵲伝


                   今村隆神鍼 著


 扁鵲(へんじゃく、紀元前4世紀頃、戦国時代の中国の名医で「難経」の著者とされているが定かではない。)は渤海(ぼっかい)郡(漢代の郡名。今の山東省の西北部から河北省の東南部一帯。)鄭県(現在の河北省任丘県の北。)人である。
 姓を「秦」(しん)、名を「越人」(えつじん)といい、若い頃は旅館のマネージャーのような仕事をしていた。その旅館の常連客の中に長桑(ちょうそう)というものがあり、秦越人(扁鵲)はこの人物を普通の人物ではないと見ていた。(仙人かはたまた高名な僧侶か。)
 それでいつもは秦越人(扁鵲)はうやうやしくこの長桑をもてなしていたが、長桑の方も彼が一般人と違う事にわずかながらも気がついていた。
 その後十数年が過ぎ、長桑は相変わらずこの宿を利用し、秦越人と交友していたがそんなある日のこと、長桑が突然秦越人の所にやってきて、こそこそと耳打ちするようにこう言った。
「ワシは秘密の方剤や治療方法をたくさん持っておる。しかしワシももう年だ。よってこれをすべてあんたに伝授しようと思うんじゃがどうじゃ。しかしこれだけは誓ってくれ、誰にもこの秘法を漏らさないこと、いいかな。」

秦越人はやっぱり長桑は仙人だったかと思うと同時に、うやうやしくこう答えた。
「いいですとも。喜んでそうさせていただきます。」
 長桑はこれを聞くとクシャクシャの顔を更にクシャクシャにして大いに喜び、おもむろに懐中からある怪しげな薬を取り出しそれを秦越人に渡してこう言った。
「そうか、それじゃあんたはさっそく、天から降ってきて未だ地面に落ちていない清い水でこの薬を服用しなさい、さすれば30日も飲み続けた後、きっと物が透けて見えるようになるぞよ。どうじゃおもしろかろう。」
そう言うと長桑は彼の行李からその秘伝書の数々を取り出してきて全部秦越人に渡した。
 かとおもうとその瞬間、霧と共に彼の目の前から忽然と姿を消し、再びこの旅館には戻ってはこなかった。
 やはり長桑は仙人だったのである。

 秦越人は長桑との約束通り、この薬を彼の言った様に30日間服用した。するとどうであろう、驚いたことに壁の内側より外を歩いている人が透けて見えるではないか。
 また彼はこの能力を病気の治療と診断に用いようと思った。そうするとなんと人体の五臓六腑のあらゆる疾病の患部が透視できるのだ。
 よってかれは脉診などは必要なく、ただ患者に対しての便宜上これを行っていたにすぎなかった。
 治療は主に斉国あるときはまた趙国という具合に各地を転々としていたが趙国にいるとき彼は扁鵲(へんじゃく)と呼ばれ始めた。

 晋(春秋時代の国の名。今の山西省一帯)の昭公の時、各地に群雄割拠する諸侯の勢力が強く王様の一族の勢力が弱まっていた。その時、趙簡子(ちょうかんし)という者が出て、大名として国政を掌握した。この趙簡子が病を患ったのである。ここ五日ほど意識不明で諸侯は大変これにおびえており、(政権交代劇が始まるかも)そこでこれは扁鵲大先生に診てもらうしかないということになった。
 扁鵲はこの大名の病室に入るやいなや、すぐに部屋の外に出てきた。(彼は患者を一目見るだけで病巣の部位が分かるので診断にさほどの時間はかからない。)
 あまりに扁鵲が部屋から出てくるのが早かったため家臣の董安于(とうあんう)が主人に何かあったのかと驚き、すぐに扁鵲に主人の趙簡子の病状を尋ねた。
「いっ、、いったい殿はいかがなされたのじゃ。びょ、、病状でもひょっとして悪化されたのか」
沈着冷静、扁鵲はこう言った。
「心配には及びません、脉は正常ですよ。それよりあんた何をそんなに取り乱しているのですか。以前に秦の王様もこれとよく似た病を患ったことがありますが、あれは患ってから七日経ったら嘘のように起きあがりのほほんとしておったわ。いまにあんたの殿様もこれと同じで、あと三日以内に全快しますよ。」
 扁鵲が去って後、はたして三日後には趙簡子は突然目覚めてこう言ったという。
「腹が減った。誰かかゆをもて。」

 その後、扁鵲は虢国かくこく、にやってきた。ところが都中の人々が何か祈祷しており、聞くところによると国の皇太子が逝去されたという。
扁鵲はすぐにこれに興味を持ち、虢国の宮廷の大門の前までやってきてそこで仙術の好きな中庶子(ちゅうしょし)に面会を求め、くわしく事情を尋ねた。
「殿下はいったいどんな病を御患いか。都中を祈祷させてこれじゃ飯も食えないし宿にも泊まれない。何にもできないじゃないか。」

中庶子はこたえて、
「殿下は気血の運行が不正常となる病気に罹られたのじゃ。気血の流れが混乱しうまく流れないのじゃ。まず体表から発作が起こり、それが体内の病変を引き起こしている。体内の正気が邪気を制止できないので、邪気はどんどん蓄積されそれを散らすことができない。よって正気が虚し、邪実となっておる。そこで突然倒れ人事不承となったのじゃ。ところでそのほうはこれをどう診る。」
「殿下は逝去されてどのくらい時間が経ちますか」
「そうよのう、およそ一番鶏が鳴いた頃から今までかのう。」
「棺桶にもう入られましたか」
「まだじゃ、まだ亡くなってから半日じゃで。」
「では何とか宮殿に入って一言陛下に上申させていただけませんでしょうか。つまりこうゆう事なんですが。私は斉国の渤海の秦越人という者ですが、家は鄭県にあります。今まで王様のご尊顔を拝したこともないし、前に出て謁見を賜ったこともありません。しかし聞くところによると皇太子殿下は不幸にも御逝去されたそうです。私ならそれを生き返らすことができるということです。」
中庶子は驚いて言った。
「えっ、、先生、人をあまりコケにするものではありませんよ。何を根拠にあんたは皇太子を生き返らせれるというのじゃ、、、、それは太古の昔、名医の兪(ゆふ)というものがあり、その治療は煎じ薬、薬酒、鍼、気功、按摩、温熱シップなどありきたりの方法は一切使わず、ただ一目診察しただけで疾患部位が判り、その病巣部にあたる臓腑の兪穴の皮膚を割き脈絡を通じさせ、又損傷のあった筋、腱をつなぎ、脳髄を治し、膏盲に触れ隔膜の間に気をめぐらせ、胃腸を洗い、五臓を清め、正気を修練によって養い、体の体型をも変えたなどというがのう。
、がもし先生の仙術(医術)が仮にこの様なら、殿下はきっと生き返るじゃろう。しかしもしその様なものでなかったとしたら、いくら殿下を生き返らせたくとも、そりゃ全くお笑い草にも何にもならんというもんじゃよ。」
 しばらくして扁鵲は天を仰いで大きなため息をつくと、こう言った。
「そいつの診察方法は細い竹の筒で空を覗くようなもので、隙間から病気という雲がただチラチラ見えるだけさ。この秦越人様の治療方法は脉診、望診や患者の体の形態や声など、一切を診断の根拠とせず、病巣部を言い当てることができる。つまり病人の外の症状を聞く事により、内にある病機というものを推し量るのだな。また言い換えるなら内部の病機が判れば外の症状がわかるというものです。例えば病気の症状が身体の外部に出ていれば、そりゃつまりなんだあ、、、ただ千里の距離内にいる病人でしたらオッホン、、、(いわゆる千里眼である)私はすぐにその体内の病変を判断することができます。
 私の診断法方はとても複雑で多いので、それをあんたにいちいち細かく説明するのはめんどうなので。(自分は千里眼であるとは長桑との約束で言い出せないので。)もし信じないとおっしゃるのなら、ちょっと私を宮廷内に入れて、やらせてみてはどう?、私が殿下を診たらすぐ、あんたは彼がまだ耳の中に音を感じることができ、鼻翼が扇動し、両股の間をなで上げ陰部に達したならまだ温かいということを知るでしょう。」
 中庶子は扁鵲のこの言葉を聞くと驚きのあまり目は点になり、まばたきしようにも、まばたきできない状態で、彼の舌は口の中で巻き上がったままで何も言うことができなかった。そしてかれはすぐに王に扁鵲の話を報告に行った。

 王はこの話を聞くととても驚き、御殿からみづから出てこられ、異例なことであるが宮廷内の中庭で扁鵲に謁見した。

「聞くところによると扁鵲先生は長きにわたって気高き功徳を積んでこられたそうですが、私は今だかつてまだご尊顔を拝見したことがございませんでした。扁鵲先生がこの小国に来られて、幸いにもあなたのお力を持って私の息子の命を助けていただけるとおっしゃる。辺境の国で徳の少ない私にとってこれは幸運の限りでございます。、先生があればこそ息子の命が助かり、あなたがいなければ私は、息子がただのたれ死ぬのを放っておくほかなく、永遠に生き返る事はないでしょう。」

 王はこう言い終わらぬ内におえつを漏らしながら泣き始めた。悲しみのあまり気が鬱結し、恍惚となり、長い間泣き続けても涙が止まらず、涙がポロポロといくつもまつ毛を伝わって流れ落ち、悲痛なほどに自分自身の感情を抑えることができず、それは全く普段の国王とはまるでうって変わった様子だった。扁鵲はとても哀れに思いこう言った。
「殿下の病は人々の言う仮死の証です。殿下はまだ亡くなられてはおりませんぞ。」
 さっそく扁鵲は弟子の子陽(しよう)に砥石で鍼をとがせ、三陽五会(百会)に鍼治療を行った。するとすぐに皇太子は目覚めた。次に扁鵲は弟子の子豹(しひょう)に薬の効果が人体の皮膚の表面約5分まで浸透するという漢方温熱シップに用いる方剤を準備させた。「八減方」という方剤が調合され、煮詰められ、布にしみこませ、とっかえひっかえ皇太子の両脇にあてられると間もなく、皇太子は床から起きあがりその上にちょこんと座った。
、さらに陰陽の気を平衡にし整える必要があったので20日分の薬が処方されて皇太子はその後健康を回復した。

扁鵲は言う。
「私こと秦越人は死人をよみがえらせる力などは毛頭無い、この病気は必ず生きながらえるものなのだ。私はただそれを健康にして起きあがらせただけにしかすぎないのだよ。」

 扁鵲が斉国(さいこく中国春秋時代の太公望呂尚たいこうぼう、ろしょうの国。今の山東省一帯、一時代に諸国の覇者となるが、やがて秦に滅ぼされる。)にやってきたときのこと、その斉の桓候かんこう)が客として扁鵲をもてなした。
その時扁鵲は宮廷で斉の桓候に会った時にこう語った。
「陛下。あなたは今病邪が肌膚の間にあります。もし今治療しなければ病は更に深い位置に移行するでしょう。」桓候はそれに答え。
「私は病気ではないぞ。すこぶる健康である。扁鵲先生はどうもご冗談がお上手だ。」
「いや私にはわかるのです。十分にお体にお気をお付けになって下さい。」
扁鵲が去った後、桓候は側の重臣にこう言った。
「医者は貧乏であると財利を図りたがる。よく病気でもない者を捕まえて病気だと言い治療する。そうして自己の名声をも画策してやまない。そういったものだ。」
それから五日後に扁鵲が再び桓候に謁見した折にまたこうもいった。、
「陛下。あなたの病はすでに腸と胃の間にあります。もし治療しなければ更に悪化いたします。」
桓候はこの扁鵲の言葉をまったく取り合わなかった。しかたなく扁鵲は退出するしかなかった。桓候はそれからひどくごきげん斜めであったという。
それから五日後に扁鵲はまた桓候に謁見したが、遠くから桓候を一目見ただけで、身を翻し走り去った。(扁鵲は桓候及びその部下の殺気を感じたに違いない)
不思議に思った桓候は人をやって扁鵲にどうして逃げたのかを尋ねた。扁鵲曰く。
「病邪が肌膚の間にあるうちは漢方薬と漢方温熱シップがその効果を発揮いたします。病邪が血脉にあるときは、鍼灸の効果がそこまで及びます。また病邪が胃腸にまで達すれば、そこは薬酒の治療効果が及ぶ範囲です。、
 しかしいったん病邪が骨髄にまで達してしまうとそれは生命を主管する「神」の問題ですので私共の力では如何ともしがたく、今、陛下の病はその骨髄にありますので、私は陛下を治療させていただこうとは思いませんでした。それで足早にその場を失礼させて頂いたまでのことです。」
 いいわけにこうは言ったものの、扁鵲は桓候に殺されることを予知していたので、すぐに弟子の子陽と子豹に荷物をまとめさせ宮廷から逃げ出す準備をしていた。
 いかに名医といえども自分の力を信じず、逆に殺そうとする者の治療は御免被りたいものである。さらに仮に扁鵲が治療しその病が癒えても彼は扁鵲の力を恐れ殺そうとするに違いなかったからである。それをかれはすでに予知していたのだ。
 それから又五日が過ぎた後に、桓候は重病を患ったのであわてて側近が扁鵲を呼びにやったが、扁鵲はすでにここを逃げ去っており、桓候はその病気で亡くなったという。

 もし仮に彼が見識のある人であれば今だ症状の現れない疾病をも知り、有名な医者にいち早く治療させるであろう。そうすれば病は癒え、長生きできるというものである。
 世間の人々が心配するは病気の数が多いことである。それに比べて医者が心配することは治療法が少ないことである。これ等の事から考えて疾病が治癒しない「六大情況」がここで生じる。それは、

一、傲慢でおごりたかぶり、道理というものを省みない姿勢。
これが第一の不治である。

二、自分の体を軽視し金銭財産ばかりを重視する姿勢。
これが第二の不治の要因である。

三、衣服や食生活が不規則で、生活にはっきりとした規則性がない。
これが第三の不治の情況である、

四、陰陽の交会や血気が混乱し、臓腑の精気が不和となり正常な働きを失ったもの。
これが第四の不治の情況である。

五、体がやせ衰えて、薬さえも服用できない。
これが第五の不治の情況である。

六、巫女や宗教を信じ、医学を信じない。
これが第六の不治の情況である。

病人にこれ等六種の要因の内一つでも当てはまれば、彼の病気の治療は難しいといえる。

 扁鵲の名声は天下に響きわたっている。邯鄲かんたんに彼がやってきたとき、そこの人々が婦人を尊んでいると聞けばすぐに婦人科系の疾患を主に治療し、洛陽に行けばそこは老人を大切にすると聞き、老人性の眼疾患や耳の疾患それに関節の痺証などを治療し、はたまた「かんよう」に来ると秦国の人々はとても子どもをかわいがる事を知り主に小児科の医者となりこれを治療した。
 彼は各地を転々とする内、その地の風俗習慣によって自分の治療専門分野を変えたのである。
 しかしある時、秦国の太医令、たいいれい(国家の医官の長)の李は自分の医術が扁鵲に及ばないことを知り、暗殺者を雇い彼を刺し殺した。
 これは「難経」という扁鵲の著作とされるものに関してであるが、今でも天下に脉学を論じる人々はすべてこの扁鵲の「難経」の理論と方法に敬意を払いそれを学んでいるといえる。





     孫思邈そんしばく唐の仙人
                      今村隆神鍼 著


孫思邈(581年~682年)は又の名を孫真人とも呼ばれ、中国唐代の非常に有名な医学者であり養生家である。出身は今の華原で主な著作には《千金要方》《千金翼方》(鍼灸の記載も数多い。)等があげられる。
、彼は中国古代のあらゆる哲学に通じ、よく老子、荘子等の学説を論じたという。また幼くして患った病のため医学にも通じていた。北周の時、洛州を管轄する政府高官は彼が年は若いが非凡であるとみてこう言ったという。
「これは神童である、才能がこうもあれば官職を得て人に使われるのは難しいだろう。」
、その言葉通り、成人してからの彼はどこにも仕官せず太白山にこもってしまったのである。
、隋の文帝が北周を補佐し朝廷の政治を行っていた頃、国子博士(国立大学教授)の職を彼に用意して招いたがその命に従わなかった。後に彼が裏で親しい者に語ったところによると
「今から五十年後に一人の聖人がこの世にお生まれになる。私はその方に仕えることとなろう。」と言ったという。
、唐の太宗が即位された頃、当時の都である長安に招待されたが、彼はその頃すでに年老いてはいたが聴覚は研ぎすまされ、視力もはっきりしていた。
そこで唐の太宗が彼を見てこの様に賞賛し語ったという。
「見た所まったく老いを感じさせない、さすが養生(長寿)の術を備えた御仁である。私も何とかこれにあやかりたいものじゃ。」
、その後太宗は彼に官位を与え、用いようとしたが孫思邈はこれを受けなかった。
、唐の高宗の時代になって朝廷は彼を諫儀大夫(皇帝に意見を述べる官位)に任官させようとしたが彼の決意はかたく、体よくことわられてしまった。唐の上元元年になってから孫思邈が体の調子を崩したと称して太白山に戻ることになったとき、高宗は彼に良馬を与え更にの王女の旧宅に彼を住まわせた。
、孫思邈そんしばくは陰陽論、易学、医薬など、どれについても長じていない物はなかった。よって弟子の廬照鄰などはすべて彼を師として崇めていた。
、廬照鄰ろしょうりん、がある時体を悪くしてなかなか治らない事を不思議に思い、孫思邈にこうたずねた。
「高名な医者はどの様に疾病を治療するのでしょうか。」
、それに答えて孫思ばく曰く。

「天には四つの季節と五行があり、寒気と暑気がお互いに交流しているのは知っておろう。天地の陰陽の気がほどよく合わさり、下降して雨となり、またそれが怒りくるったように激動するなら風となる。また集まり凝固したならば霜や雪となり、また張りつめて広く散布されたなら虹となる。これ等はすべて自然界の法則ともいえるものじゃ。これ等と同じように人間の四肢や五臓は言うに及ばず、起きたり眠ったりすること、またその呼吸や営衛の気の流注の状態の善し悪しは顔の色つやに現れ、これが体外に洩れだすものは五声として空間に響きわたるもので、これは人体における自然界の法則であるともいえる。
、よいかな、また陽の現れは目で見て見える具体的な形状である。陰の現れは調べて知ることのできる性質や機能であるといえる。これ等は自然界も人間もまったく同じ法則が適用されるといえるのじゃ。、
、人体において陰陽の失調が起こると陽気が鬱して蒸されて熱をともなう病気を引き起こす。また陰が陽を閉じこめたなら寒の病となる。気血があるところに溜まり結ばれたなら腫瘤となる。気血が下陥すると皮膚病になりやすい。また気の運行が狂うことが甚だしければぎ叫びまわり疲れはてたようになる、気虚が極まったなら人の身体や外見は枯れたようになる。これ等のことは全て人の外見から見て取れるものなのじゃ。
、天と地すなわち自然界のこともこれと同じじゃ。五星の運行の乱れは彗星を生む。これは天地の気が不安定になった証拠で天災の前兆である。
、また寒と暑の気が時間通り交替しなければこれは天地の気が蒸され詰まっていると言うことである。
、さらに岩石が切り立って土が盛り上がっているのは自然界における腫瘤でありである。山が崩れたり地面がくぼんだりしているのは自然界の皮膚病である。(古代中国のガイア思想か)暴風雨が起こるのは自然界の喘ぎ叫び疲れはてた声である。川が枯れ果てるのは自然界が熱せられ乾き枯れはてたものである。
、よって高名な医者は鍼灸や漢方薬を用いて、これら人体の気の不調和を治療することができ、聖人は徳と仁のある政治力をもってして自然界の不調和を正し、人々を災害から救うことができるのである。」

、又廬照鄰ろしょうりん、がこう尋ねた。
「孫先生、ではお伺いしますがこの浮き世、社会のことはどの様に対処したらよいのでございましょう。」
孫思邈はいう
「心は君主の官である。君主は恭しく謙虚であることを重んじる。よってよくよく用心することが必要である。」《詩経》は言う「深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」これが言っているのはつまり謙虚に諸事に注意し、よくよく用心せよということである。
、さて肝胆は将軍の官である。果敢に決断するのが職務である。よって諸事に大胆さが要求される。《詩経》は言う「ゆうゆうたる武夫は、公候のと城」この言っている意味はすべてに大胆であれということである。
、次に仁とは静かで落ちついている事である。これは地の象徴である。よって物事を正直にきっちりすることが要求される。《左伝》は言う「利に回らず、義に窮さず。」これの言っている意味は正直であれということである。
、さて智とは常に動いているものである。これは天の象徴である。よって融通を利かせ、物事がすんなり運ぶようにすることが要求される。《易経》の中には「機を見ておこなえば一日中待つことはない。」という言葉があるが、この意味は智恵をもって諸事融通せよということである。」
、廬照鄰ろしょうりん、がまた養生の要点について質問した時、孫思邈は答えて曰く、
「天に虚が満ちるという変化があり、人間の安定した生活が脅かされる時、自らが自らに気をつけ養生していなければ、事に当たってそれを救う事はできないということじゃ。よって養生とはまず自らを慎むということを知る事であると言える。自ら慎み励むということは全てのものを敬うということであろう。よく聞けよ。
、つまり知識人が人間を敬うことを知らなければ仁と義という概念は荒廃し、農夫が自然を敬うところがなければ種は尽き農作物は枯れ果ててしまう。あたりまえじゃ。
、次に職人が寸法というものを尊重するところがなければ公定の定規や巻き尺を軽視するようになる。また商人が財貨を敬わなければ(重視しなければ)利殖はできない。そうじゃろ?
、さらに家庭の子女が父母を敬わなければ孝行の道理は忘れられ、父母が自分の子女を大切に思うところがなければ(長所を認めなければ)慈愛の情を捨てるにも等しいというものじゃ。
、また例えば臣下が上司を敬うところを知らなければ立身出世はできず、王様が国家というものを敬うことを知らなければ混乱を引き起こし国政は太平を欠く。凡そこういうことなんじゃ。
、よいかな。そこでこの世で最も賢い人々はいつもまず道(道教の)というものを敬っておるといえる。そのつぎには天を敬っておる。其の次には自分以外の自然物を敬い、其の次には人様を敬っておる。其の次にやっと自分自身を敬っておるのじゃ。
、自分自身がこれらを敬うところがあれば、他人からの制約や束縛を受けるはずがなく、小さなことに慎みを持って対していれば、大事に際しても何も恐れることはないというものじゃ。
、また近き事に用心していれば遠き事に怠慢であったり軽い気持ちを持ったりする事はないはずである。
、おぬしがもしこの道理が理解できるなら、人間の身体の養生法もまたこれに同じということがわかるというもんじゃよ。」
、当初歴史家が斉、梁、陳、周、隋の五王朝の歴史を編纂したとき多くの異聞や言い伝えを聞いた。その中でも孫思邈に関する物が一番多くあったという。彼は高宗の永淳初年に亡くなったが、聞くところによると百数才であったという。残された家族は簡単に葬儀をすませ墓の中には冥器(あの世で使う品物)などは入れず、また葬儀に際しては豚、牛、羊等を供えることすらしなかったという。
、また孫思邈の鍼灸に関する記述ははその著作《千金要方》に多く見られる。例えば巻の29に阿是穴の記載がある。またこれにはすでに失われた唐代の鍼灸の名著、
《甄権針方》《明堂人形経》《甄氏・針経鈔》などの記載が保存されており、また、扁鵲へんじゃく、などの鍼灸治験も残されており、これは唐代の鍼灸医学、養生学の重要な古典書であると言える。



          金元医家 朱丹渓  しゅたんけい 伝

                      今村隆しんぜん神針

朱丹渓しゅたんけい、は元代の中国は州(現在の浙江省、金華県)の義鳥の人である。姓を朱、名を震亨、字を彦修といい、当時の科挙の試験の為に四書五経を勉強する学生達は尊敬をこめて彼を丹渓翁と呼んだ。、
、ちなみにこの丹渓という名は彼の故郷にある小川の名前から取ったものである。また彼の医術はとても優れていたので、患者はたった一回の治療で全快することがままあり、そんなこともあってか朱一帖(一枚の処方箋で治るいわば一発の朱先生)、とか朱半仙(半分仙人の朱先生)とも呼ばれていたという。
、彼は中年になってから医学を学んだ人であり、当時の名医、羅知ていから多くの教えを受けた。主に彼は師に学ぶほかに劉河間、張子和、李東垣、等の著作を研究し「相火論」を唱えたことで最も有名である。
、その中心理論は「人体の陽気は常に余りあるものであり、陰気は常に不足しがちである。」というもので、後の中国医学界にという考え方を残した偉大な医学者であるといえる。代表的著作には《格致余論》《局方発揮》等があげられるが、鍼灸の記載についてはその著作《丹渓心法》に多くみられ研究に値するものであるといえる。(異説はあるが。)
、朱丹渓は幼くして勉学を好み、毎日一千個の漢字を暗記したという。また数年が過ぎ、やや成長した頃には村で有名な先生につき儒教の経典を学び、科挙の試験に合格するための勉強を始めた。
、後に許文懿きょぶんい、
(朱子学の学者である。名を謙、字を益之、晩年には白雲山人と称した。元代の金華人である。幼いころから独学し、読んでいない経典は無いと言われた神童である。さらに当時彼に従う食客は数千人にものぼったという。)
が朱の学説(いわゆる朱子学である。)の四代目を継いだと聞き、八華山で自分の考えを述べ、ねばり強くお願いして自分の師匠となってもらった。、
、彼がこの朱子学の綱常道徳、人性天命といった学説をさらに深く理解した頃、もっと詳しく正確にこの理論を学びたいと思い、もっぱらこの道に励みだした。
そんなある日、師匠の先生が突然彼にこう言った。
、「わしゃ病気で臥せてもうかなり長い。やはり東洋医学に精通していない人間には、とうていわしの身体を元気にはでけへんのや。丹渓はん。あんたの才能はわしゃ一般人を越えていると見た。そこでや、もしよければ、あんた東洋医学方面の文献を読みあさるつもりはないかいな。どないだ。」
、丹渓は自分の母が脾の病を患っていたので、東洋医学についてはいくらかは知識があった。そこで師匠ののこの言葉を聞くと感慨深げにこう答えたという。
、「知識人がもし一つの分野に精通する事ができれば、あわせてこの徳(知識)を世間一般の社会に応用し、還元し広めることができます。それはすなわち、実際には国家の官僚になっていなくとも、官僚となったも同じ事であるといえるのではないでしょうか。」、

(朱丹渓は自分の母と師匠の健康の為に国家官僚の道をすててしまったのだ。)
、数日後、朱丹渓は今まで学んできた科挙の試験のための数々の古典書をことごとくすべて焼き捨ててしまったという。そしてその後、一心不乱に東洋医学を勉強し始めた。
、時正に陳師文との制定した《和剤局方》
(正式にはという。宋の時代の大観年間、皇帝の勅状により宮廷の書庫部郎中、陳師文がした297の方剤より構成された有名な方剤書。)
が隆盛を極めていたときである。
、朱丹渓は毎日のように朝から晩までこの書の中の方剤を暗記する事に努めた。全部暗記してから、しばらくして彼は何事かを悟った様にこう語ったという。
「昔の方剤を以て現代の病気を治療しようとするのは少し実際とはそぐわないようだ。もし診断や治療方面のもので後世に一つの標準的ものを残そうとするならば、やはり《素問》《難経》等の経典を基礎とせずばなるまい。、しかし故郷の私の先輩達の中にはこれ等のことを理解できるものはまったく少ない。いったいどうしたらよいものか」
、ついに朱丹渓は旅装を整え旅に出るほかに道は無く、別の師匠に教えを請うべく故郷を後にしたのだった。
、彼は浙河(銭溏江)を越え呉の国に入り、そこから宛陵に出てついには南徐に至り、さらに建業にまで来たがどこの都市にも《素問》《難経》等の経典に通じる、この様な師匠に巡り会うことができなかった。、
、しばらくして武林(今の杭州)まで戻ったとき、突然ある人が当地の羅知悌、という人物を彼に紹介した。羅先生は字を子敬といい世間の人は彼を太無先生と呼んでいた。
、彼は南宋の理宗皇帝の近従として宮廷にも仕え、かつ医学にも精通していたので当時の北部中国の金王朝の劉間素の弟子からその医学を伝授され、そのうえ張従正、李東垣の二つの学説にも通じていた。
、しかしは無口で性格は孤高でかつ傲慢であり、自分の技術のみを頼りにし交際やつきあいというものを嫌った人物であったので、周囲の人々はなかなか彼の意思をくみ取れなかったという。
、この様な人物であったので朱丹渓が彼に会いに行っても追い返されること度々で、これではもう先生に会うことはかなうまいとさえ思ったほどであった。
、しかしその後今度は更に丁寧にひつこくお願いしたかいもあって、羅先生はやっと彼に会うことを許してくれた。
、は朱丹渓に会うと開口一番こういったという。
「あんさん、ひょっとして朱彦修はんでっしゃろ」
、聞くと見るとは大違いで意外に会ってみると実はくだけた人物だったのだ。
、当時すでに朱丹渓はこの辺りの医学界ではすでに名声を得ていたのでも彼を知っていたのだった。
、羅知悌先生は朱丹渓に会うと、彼を南側に坐らせ北を拝ませ「告請之儀」(師匠が弟子を取るときの儀式)
をとりおこなった。
、羅知悌は朱丹渓に出会ったことを大変喜び、劉、李、張、の三家の書をさっそく彼に与えた。加えるに彼にこの三家の学術面の本質的部分を発展し論述して聞かせ、さらに完全に《内経》の理論に基づきこれ等を考証してみせた。
、羅知悌は朱丹渓にこう言う。
「あんさんが昔に勉強しなはった事は全部捨てはるこっちゃ、ありゃ間違いだっせ。」
、朱丹渓は彼のこの一言を聞くやいなや、表情がパッと明るくなって、一つの疑いも胸中に無くなってしまった。それからしばらくして彼は羅知悌の医学理論を全て完全にマスターし帰路についたのだった。
、故郷に帰ってみるとそこの医者はやはり、《和剤局方》(太平恵民和剤局方)の方剤及び治療方法にどうしようもないぐらい固執していた。そんな中で特にこれを支持する人々は丹渓の話を聞くと大いに怪しみ、あざ笑いそして排斥した。
、ただ先生(彼の朱子学の師匠)だけは大いに喜んでこう言った。
「あんたが帰って来たからには私の病気ももうすぐ良くなりまんなあ。これで一安心っちゅうもんじゃわい。」
、先生は癱瘓(たんたん中国語ではtan1声 huan4声、で脳血管障害の後遺症の事である。)を患って四肢が不自由で当地の医者がこれを治しきれないでもうすでに十数年が過ぎようとしていた。朱丹渓はこれに自らの治療方法に従って治療を施し、明らかな効果を上げたのだった。
、さすがにこれには彼をあざ笑って排斥していた医者達も舌を巻かざるを得なかったのである。
、数年の内に丹渓翁の医者としての名声はすぐに辺りに響きわたった。しかし彼はこれをよしとせず、羅知悌先生から授かった劉、李、張、の三家の書とその学説の臨床応用に黙々と取り組んでいたのである。
、この様に丹渓翁の医術はどんどん有名なものとなっていった。すると四方八方から診察を求める人々が集まり、彼の診療所の前の大通りを埋め尽くした。彼は一人一人の前に行って丁寧に応対した。
、彼の治療した疾病は全部で何種類か、その疾病の症状はどんなものだったか、どの方剤を用いたか、どの薬を服用して全快したか、過去から現在まで応対したものは誰であるか、どこに住んでいるのか、病人の姓と名前が何であるか、これ等は全て朱丹渓に関する言い伝えのなかで言われており、更に書物として残されているものである。

、例えば浦江のという者が痢疾を患った。ある晩突然卒倒し目は上視したままで小便を失禁し、汗が止まらなかった。丹渓翁が彼の病気を診ると脉が散大する事このうえない状態であったので家族にこう告げた。
「これは陰虚して、陽気が突然脱した症状です。恐らくは陰虚が基本的にあり、お酒を飲んだそのあと、激しく房事をなさったのでしょうが、、、。しかしご安心下さい。以前にも私は似たような症状を治した経験があります。」
、こう言うと彼はすぐ人に人参膏を準備させ、あわせて即急に患者の気海穴にお灸を施した。しばらくすると病人の手は動くようになり、またもう少しすると唇も動くようになった。さらに人参膏ができあがるのをまって、3回に分けて服用させた。すると病人は意識を取り戻したのであった。その後全部で数の人参膏を服用させると彼の病は全快した。
、天台(現在の浙江省天台県)の姓が周という(学生の中で科挙試験の会試に合格した者)が冷え性を患った。彼の症状は暑い夏も真っ盛りであるというのに、真綿をぐるぐると頭に巻き付け(寒く感じるので)、さらに附子を数百枚服用してもかえって病状は悪化するばかりというものだった。
、が彼の脉を診るとでであったのですぐに彼にこう告げた。
「これは熱が極点に達しかえって寒証となったものです。」
すぐにの薬(解表薬の一種で発汗の力は辛温の物より劣るが、風熱を散らす効果が強い。薄荷「はっか」、牛蒡子「ごぼうの種」蝉衣「せみのぬけがら」など)で治療を開始すると一升の痰を吐き出し、頭に巻き付けていた真綿も半分に減らす事に成功した。さらに続けて《宣明論方》(解表攻裏の方剤。防風、薄荷、麻黄、大黄、川弓、当帰、白芍、連堯、各15グラム。荊芥、梔子、白勺、各0、3グラム。桔梗、石膏、黄ぎ、各30グラム。甘草60グラム。滑石90グラム。)を彼に与えるとやがて全快した。
、この周さんはとても喜んでこういった。
「いやーやはりうわさ通り、一発の朱先生。私のこの病気もこんなにすぐよくなるなんて信じられません。」
しかし丹渓翁はかえってこれを諭してこう言ったという。
「病気が好くなったからは、かならず性のあっさりしたものを食べて胃の気を養い、内観の法(中国の内気功の一種)を行い、あなたの身体の神(自律神経系統)を養わなければなりません。そうすれば腎水が昇ることができ心火は下降できるでしょう。さもなくばあなたが以前に飲んだ附子の毒は必ず発作を起こします。そのときには恐らくきっと手遅れとなるでしょう。」(附子は下薬である。長期に使用することはさけなければならない。免疫力が低下して感染症が発生する可能性がある。神針)
「はいはい、先生わかりましたよ。でもきっとこんなに良くなったんで、もう心配はいらんでしょう。」
、彼は医者の言うことを聞き容れ養生することがなかったので、聞くところによればその後、背中にひどい出来物を患い死んだという。
、あるひとりの男が排尿困難を患った。医者はこれを利尿薬によって治療していたが更に悪化するばかりだった。丹渓翁は彼の右手の寸関脉がかなり弦滑を呈していたのを診てこう言った。
「これは積痰の病です。痰が肺に溜まっていますな。肺は上焦にあり、膀胱は下焦にあります。人間の身体は上焦が通じないと下焦も通じないものですな。簡単に言うとですね、仮に樽の中に水が入っていたとしましょう。この水を抜いてしまうのには下に穴がありますのでそこから抜くわけですが(泌尿器に例えている)下の穴だけからだと抜くのに時間がかかってしまうものです。そこで上の穴を開けてやり(消化器官に例えている。)通じやすくしてやると下からも速くすんなり出てきます。、
、というわけであなたにはこの吐法という治療方法を使って治療しますのでおおいに上の穴(口)から吐いて下さい。そうすれば下の穴から尿の方もおおいに出てきます。」
、朱丹渓はこの方法により患者にはげしく嘔吐させた。すると今まで困難だった排尿も殆ど治ってしまった。

、またある時、一人の若奥さんが産後に陰部に何かつっかえた感じがして、局部がまるで服の襟のようになってしまって元に戻らない、医者を呼んでみてもらってもわからない、という患者を診察した。
、朱丹渓は言う。
「これは子宮の一部分ですよ、もともとあなたの身体の気血が虚していたので御出産の時、胎児といっしょにくっ付いて出てきたものです。」、
、そういうと彼はとかなどの気と血を補う薬を彼女に与え、加えるににより気の下陥したものを引き上げ、あわせて皮革加工に良く用いられる方法を応用した治療法、即ち煎湯で陰部を洗浄することにより局部を縮小させた。しばらくしてこの患者の子宮は元の位置にまたきっちり納まった。
また丹渓翁はこの患者をいたわるようにこう言ったという。
「ご心配はいりません。三年後にはまたお子さんを産めるようになりますよ。」
、その後、この婦人はまた一人の子供を生むことができたという。
、それからしばらくして、一人の貧しい後家さんが癩病を患った。
丹渓翁は大変同情して側の者にこう言った。
「この病気は難病とされているが、それは患者が禁忌を守れないからである。この婦人は貧しい為、食は滋養のある物もすくなく、後家であるので性生活もあまりないであろう。私が診たところ良くなる可能性は極めて高い。」
、そう言うと彼は自ら特別な薬を手に入れ調合し治療にあたった。また病状が好転してからも《和剤局方》補血調経(当帰10グラム、川きゅう8グラム、白芍12グラム、地黄12グラムを散剤とし約8グラムずつ等分に分け服用。)を数百剤服用させ、再発させることがなかったという。

、朱丹渓の医療は大体がこの様であった。彼の疾病に対する治療法は古方に固執する事が無く、また治療に際しては証を見極め、各歴代医家の治療方法については知らないものが無かったという。
、彼以外のこの時代の医者達は以前の治療方法に固執して捨て去るべきを惜しみ捨てることができなかったが、朱丹渓は応用すべきは応用し捨て去るべきは捨て去り、その治療法は変化にとんでいたといえる。、
、しかしそのすべては《内経》《難経》などの古典に基づいた治療であったのだ。しばらくすると医学を学ぶ学生達はまるで彼の声のように彼と行動を共にし、まるで影のように彼に付き従うようになった。
、丹渓翁は彼らを指導する事に対してもまるで疲れを知らないかの様であったという。
、朱丹渓は年をとってから後、張翼等の人々の申し出により「格致余論」「局方発揮」「傷寒弁疑」「本草、義補遺」「外科精要新論」等の書を著した。、
、これ等が出版されてから後に、当時医学を学ぶ物はこれをあまねく暗唱し学習して治療方法をそこから学んだという。



        フビライ皇帝の側近にして 元の有名な針師 竇漢卿とうかんきょう 伝   神戸の針師       今村神鍼 著
                

、竇漢卿とうかんきょう(1196~1280)こと竇黙はモンゴル帝国フビライカーンの高級官僚である。幼名を竇傑とうけつ、字を漢卿かんきょう、黙もく、子声しせいなどといい、中国の偉大な儒教学者でもある。、
、鍼灸の有名な歌賦(かふ・暗記するための歌)の一つである「標幽賦ひょうゆうふ」はこの金元時代の偉大な鍼灸治療家でもあった彼、竇漢卿、(とうかんきょう)の著作である。
、竇漢卿の漢卿や別名の子声はすべてあざなであり、本名は竇黙といった。中国の古代人物はいくつもの名を持っておりこれが医学史を理解する上でかなりややこしい事となるのであるが、それはさておき、彼の出身地は今の広平肥郷(現在の中華人民共和国河北省。)である。幼き頃より読書を好み、自立的な思考を持つ子供であったという。彼の一族の長の竇旺は郡の役人をしており、竇黙にもこの官吏の試験を受けさせようとしたが、竇黙はこれを拒み一途に儒教の経典の勉強に励んでいた。
、時は金代の末期、モンゴル(元)の軍隊により中国全土は戦乱に満ち満ちていた。
、ちょうど彼の住む廣平肥郷にも元の軍隊がやってきた。当時、彼は運悪く村人30人余りと一緒に捕虜になってしまった。そのうえ元軍はこの村人30人と共に彼を元軍に対する反逆罪で皆殺しにする事にしたのである。監視の目を盗み、彼は幸運にもその場から逃げ出すことに成功したが、彼以外の残りのものは不幸にも槍で突き殺され、みな殺しにされてしまった。

、ほうほうの体で自分の村に逃げ帰った竇黙はほんの2、3日前まで一緒に暮らしていた家族や親戚をさがしてみたが、家族や親戚一同はすべて自宅で殺されたか行くえ知れずになっており、ただ彼の母親だけが戦乱のショックのため、呆然と寝床に横たわっているのみであった。
、やがてろくな食べ物もなく、家族や親戚など頼るものが一人もいなくなった親子はひどい伝染病にかかってしまった。それがもとでやがて母親はなくなったが、竇黙だけは何とか命だけは助かり、元軍をひどく恨みつつも、涙を呑んで母の遺体を実家の近くの草っぱらに埋葬し、ねんごろに弔ったのである。
、そうこうするうち、彼の住む村の近くに再び「元軍が現れる」とのうわさが広まったので、とりあえず彼は黄河を渡って南に落ち延びることにした。だがこれといって他に行く当てのないは祖父にあたる呉の家を頼っていくことにした。
、ここで彼は3年の間、母の喪に服した。その間母を伝染病で亡くした為もあって、より医学を熱心に勉強するようになったのである。

、ある日の事、竇黙が自室で医学の経典を読んでいると祖父の呉老人がやってきて彼にこう言ったのである。
「のう竇黙(彼の幼名)よ、、、実は昨日、昔の友人の王という医者から手紙がきたのじゃがのう。おまえの最近の医学好きはこのあたりじゃ知らぬものはおらん。そこでそれをワシが以前に王先生に手紙で伝えたのじゃが、おまえを王の家の婿養子に欲しい、とこう言うのじゃよ。どうじゃなこの話、そう悪い話だとは思わんがのう。どうじゃ一度考えてはくれまいか。」
、竇黙は本から目を離すと目を輝かせてこういった。
「おじいちゃん。そりゃ願ってもないことだが、いったい相手の娘はどんな人かな。一度会ってみてからきめることにしてもいいですか。」
「いいよ。ではさっそく明日にでも手紙を出して、王先生と娘さんに会う段取りをつけよう。」
、呉老人はさっそく王医師の家に手紙を書くと「いついつ、おうかがいさせてもらう。」との主旨を伝えた。
、やがて一ヶ月後、呉老人に伴われた竇黙は豪奢な王医師の邸宅へ出向き居間に通された。王医師はこのあたりでは有名な医者であった。やがて彼が出てきて自己紹介のあとこう言ったのだった。
「今は世の中が乱れに乱れておる。こんな時にこそ医術は役に立つものじゃ。それはどういうことかというと、人の命を救って自らも徳を積むという事じゃな。どうじゃ、うちの養子になって医学を正式にワシから学んでみないか?」
、竇黙は答えて言う
「実に道理にかなったお言葉。私も病気と戦乱で家族と母を同時になくしました。それで自分の無力さや世の中の無情、人々の病苦が痛いほど身にしみてわかりました。よって今は儒教ではなく、医学こそ人々を病苦より救う最良の手段と考えるようになりました。」
、竇黙がこう言い終えた後、王医師の娘が居間にお茶を運んできた。しかし彼女は何も言わずにお茶を彼の目の前のテーブルにおくと、恥ずかしそうに眼を臥せたまましずしずと出ていった。
、いわんや!絶世の美女である。あまりの美しさにと竇黙と呉老人はボーッとしたまましばらくは見とれていたが、竇黙はやがては膝をポンと叩いて、開口一番こういった。
「やりましょう。私をあなたの弟子にして下さい。」
「よっしゃ。では決まりじゃ。式は一週間後、詳しくは又後日に決めようではないか。」
、さてこの日より後、竇黙は以前にもまして医学書を読みあさるようになっていったのである。女性の力は真に偉大だというほかはない。
、さて王家との婚礼も済み、王医師の下で彼の持つ技術と学術の全てを受け継いだ竇黙こと竇漢卿は、彼のはからいで天興元年(1232年)、夫婦共々、西華(今の河南省)に移り住み、ここで学校の教師と医者という二足の草鞋をはくこととなった。

、しばらくはこの地で学生に儒教を教え、人々の病気を治療して平穏に暮らしていた竇漢卿夫婦も、また戦乱が再びこの地に迫ったため、ここから蔡州(今の河南省、汝南)への逃避行を余儀なくされたのである。

、その道中での事。夫妻はちょうど、ある若い女性が道ばたに腹を抱えて、うずくまって難儀しているのに出くわした。
、夫妻はさっそくこの娘を道ばたに寝かせて王家の家伝の薬を与えたが、効き目はいっこうになく、ただ娘は腹を押さえてうんうんうめき、肩で息するばかりであった。どうしようと手をこまねいていると
、やがてそこへ自ら医者と称する、山東訛りのある学者然とした男が現れた。この背の高い痩せぎすの男は、竇漢卿に替わって脉をとり診察すると、娘の手と足にキラリと輝く合計4本の金鍼を打ち込んだ。娘は針が打ち込まれる瞬間「ううっ」と2、3回軽く呻いたがやがて静かになった。
、さてこの娘、鍼を打って1、2分もするとそれまでは顔面蒼白で「うんうん」うなっているばかりだったのが、顔色に少し赤みが差し表情も緩んできた。30分位経った頃であろうか、この医者は娘に打たれた4本の鍼を手早くスルスルと抜き取ると、何か一言、二言告げて蔡州の方角へ去っていった。

、娘はそれから20分ほどほどぐったりしていたが、やがて痛みがだいぶひいたのか、自分でよろよろと立ち上がり、面倒を見ていた夫妻に礼を言ってその場を立ち去ろうとした。
その時、竇漢卿はいきなりこう尋ねた。
「おい、ちょっと娘さん、つかぬ事を尋ねるが、さっきのお方は名をなんと申されたか。あなたさきほどお聞きになられたであろう。」
「はい、名前は、、、そうそう李浩ともうしておられました。何でも戦乱を避けて蔡州の親戚宅にいらっしゃる途中とのこと。そこは街一番の薬局だから、もし蔡州で発作が起こったら尋ねてくるよう、こうおっしゃってくれました。」
、彼の鍼灸術に感服した竇漢卿はそれを聞くやいなや、すぐさま妻とこの娘を共なって、蔡州の方角へ足早に歩き始めた。、
、日も暮れかけて、やがて街に着いた竇漢卿はとりあえず荷物を宿屋に置くと、すぐにこの李浩(金元時代の名医。今の山東省曲阜の人。自身は倉公を非常に尊敬する人物で鍼灸に長じていた。)と名乗る鍼の名医をたずねて、街で一番大きな薬局に足を運んだ。
、李浩は竇漢卿が訪ねて行くと快く出迎えた。そのあと、親戚がこの2人の遠来の客の為に提供した夕食の席では、二人の話題は儒教から元軍に関するものまでにわたり、たいへん盛り上がったという。
、さていつしか話題が医学になったとき、とりわけ鍼灸に関するものになったとき竇漢卿は李浩にこう聞いてみた。、
「李浩先生の鍼は正に神業といえます。私は医学には多少の心得があったつもりですが、鍼灸にあのような速効があるとはまったく思いもよりませんでした。どうでしょう、李浩先生、どうかこの未熟な竇漢卿を弟子にしていただけないでしょうか」
李浩は満面に笑顔をたたえ、しかしその眼はするどい輝きを持ってこのように答えた。
「先生が未熟などと御謙遜も程々に、、、ほんとに先生はご冗談がお上手だ。」
「いやいや私は医学においてはやはり、あなたより未熟だといえます。というのもあなたは私のできない鍼灸の治療法をご存じだからです。」「鍼灸というものは黄帝から秦越人、それに色々な名医が数多くいますが、言葉で表せる部分が少ないため、どうしても先生につく必要があります。しかしわたしにはまだその資格がない。よってどうかその件だけは何卒ご容赦下さい。」こう言って目を伏せた。、
「わかりました。しかしわたしはあきらめませんぞ、まあこの件は又後日と言うことで今日はまずは大いに呑みましょう。わっはっはっは。」、
「はあ、、、しかし、、、。」
、李浩は何か肩すかしを食ったような感じで目尻をすこしけいれんさせ、竇漢卿のつぐ酒を受けていた。、
、次の日が再びこの薬店に李浩を訪れると李浩は彼に会おうとはせず、下僕に一通の手紙を持たせてきた。それには次のような一文が書かれていたのだ。、
「天宝不泄于非人、聖道須伝于賢者。」
、意味は、天からの授かりものである鍼灸という宝物はそう簡単に見ず知らずのものに教えるわけには行かない、この聖なる治療方法は必ず賢者にこそ伝授されるべきものである。
はっきり言って竇漢卿は李浩先生に嫌われたわけであるが、、
、当時、この山東生まれの儒教の大家でかつ名医の李浩は戦乱を逃れるため、ここ河南省に来ていたのだが。李浩が3度も4度もの弟子入りを断ったにもかかわらず、竇漢卿は頑強にこれに固執し、ついに弟子入りをはたし、「銅人鍼法43穴」を伝授される事になる。彼はその後、これがもとで中国の鍼灸界で名声を得るようになるのだが。

、それから竇漢卿一家は再び戦乱を避けて、南に下り徳安(現在の湖北省安陸)に移り住むこととなる。そこで県令より宋代の理学(儒教)を学んだ。竇漢卿は毎日毎日これを暗唱し全てを記憶したという。再度蒙古軍が徳安に迫ったとき、元の朝廷が儒教及び道教の士を召集しているに応じて北部の大名(河北省)に移り住む。、、
、ここでは、元代の著名な学者と共に理学(儒教の学問)を学生に教えるかたわら、自宅で鍼灸院を開き、患者を貴賎の区別なく病を治療したので、竇漢卿のその鍼術は確かで信頼できるものとされ、その鍼医としての名声は辺りに響きわたるようになった。

、さて元のフビライがまだ皇帝にはなっておらず藩王の時代、かねてからの竇漢卿の儒者としての名声がフビライの聞き及ぶこととなった。そこでフビライは彼に使者を送って招聘したが、彼は名前を変え居を移しこれに答えようとはしなかった。
、幾度もフビライの使者を断り続けた彼も、友人の説得には弱かった。フビライは竇漢卿の友達にまで使者を送り、彼を説得するよう命令したのだった。彼は嫌々ながらもこの命令に服するしかほか無かった。
、その後彼はフビライにしょっちゅう自宅に呼ばれ、政治について色々尋ねられた。その時彼はいつも元政府に対しては辛辣に思うがままに所感を述べたため(以前、自ら殺されそうになったし、親戚家族が元軍のために殺されている為もあり。)皮肉にもかえってフビライの信任厚く、彼が即位後にフビライカーンとなった後は彼の庇護の下、昭文館の大学士、大師(その死後)等の職を歴任した。
、憲宗3年(1253年)フビライと竇漢卿等、フビライカーンのブレーンがその軍隊とともに駐屯地であるカフトに赴いたとき、彼は名医、羅天益(金元4大医家の一人で、ツムラの補中益気湯でも有名な李東垣の直弟子である。フビライカーンの奥御医師であった人物。1220年から1290年頃の名医。著作に「衛生宝鑑」等がある。)と医学について論じ合い、は彼の「流注指要賦」と補瀉の手技を羅天益に教授した。

、またその後、モンゴルの官僚の王さんが右足に寒疾の邪が入り、雨が降りそうになると痛みだすという病を患った。そこで1257年の春に竇漢卿を今の河北省、大名に訪ねたところ、彼より先に来て鍼灸治療を受けようとする患者が待合い室に一杯にあふれかえって待っていた。そこはありとあらゆる病気の者が一堂に会したという感があり、病気の博物館の様だったという。この王さんがここでの治療を受けた後に30年は再発を見なかったという。
、鍼灸の臨床を行いながらも竇漢卿はその逝去の後には大師という官職を与えられた為、後世の人は竇大師とも呼んだりする。、
、さて儒教の大家でモンゴル帝国フビライカーンの官僚、かつ偉大なる金元時代の鍼医(李浩派鍼灸)竇漢卿の略歴はこの様なものであるが、残念にも日本の鍼灸界ではぜんぜんあまり知られていない人物である。著作としては「標幽賦」「流注指要賦」、「鍼経指南」「八穴真経」「銅人鍼経密語」等があるがその幾つかは失われてしまっている。



        金元医家 李東垣りとうえん伝   
                   神戸の針師     今村隆神針 著


李東垣は、李杲りこう又は東垣老人などと呼ばれる中国金元時代の4大医家の一人である。字を明之といい、真定(今の河北省正定県。)の人物である。、、
、この真定の街の古代の呼び名が東垣であったところから、彼は晩年には東垣老人などと呼ばれる。日本では「脾胃論」「補中益気湯」などで有名であるが、エキス剤の番号を知っていても、この人の名を知る医家は少ない。さらに「東垣鍼法」などという針灸の治療方法があるのにこれを知る針家も少ない。そこでこれらを広めるため、私はこの様におもしろおかしく記事を書いているわけであるが、これはいわば念仏踊りであろうか。それはさておき。、
、この李杲りこう、生まれは金の時代、大定20年(1180年)で元の時代、憲定元年(1251)に没する。、
、もともと李東垣の家はどえらい大富豪の家で、真定と河間(劉河間の故郷でもある現在の河北省石家荘から東のあたり)両県で一番の大金持ちであった。規模として昔の大阪の鴻池家のようなの感じでしょう。そこの大阪弁でいう「ぼんぼん」として生まれた李東垣先生は何不自由のない環境でその才能を発揮しだしたといえる。、
、彼はやはり幼き頃より学校の他の同級生とはひと味違う子供だったようである。つまり好んで医学書を読むという癖であるが、この時代の才能がある子供というのはまず儒教の経典なんかを好んで読むのだが、彼は医学書を幼い頃は読んでいたようである。、
、さて少し大きくなってからは「論語」「孟子」「春秋」などをお読みになり、お金持ちで異常に品行方正で真面目な、ある意味では文句の付け様のない好青年に育っていく。(その上美男子なら当時も今も相当もてたでしょうな。しかし想像するに彼はどちらかというと、やせっぽちで体つきは貧相であったと思われる。)一方で彼は妓楼(今でいうスナックとソープランドの中間の様な所。)にも行かない、(彼は下戸であるので。)まして女を買いに行くなどとんでもない。つまり友人と一緒にバカ話一つできないコチコチの人物であったようである。、よってみんなに「冗談も解せぬ堅物。」と思われ、同級生の怒りを買うこともしばしばあったという。、、

、さてここに一つおもしろい彼のエピソードがある。いわゆる現在で言う、問題の「いじめ」であるが、ある時、李東垣の同級生たちが密議をして妓楼に彼のために一席をもうけた。もちろん当然堅物の彼に一泡吹かせようというのがその目的である。、
、当日、呼び出されて嫌々やって来た李東垣と首謀者の同級生数人は、いつもの妓楼で彼らの定席につき宴会を始めた。例によって若き李東垣先生は下戸であるので飲めない、よって悶々とお茶か何かで水を濁していたのだが、、、。、
、さて宴もたけなわの頃、一人の美人の妓女がかねてから彼らの手はず通り現れ、李東垣の隣に坐って一緒に飲み始めた。やがて打ち合わせ通り、この美人は酔っぱらったふりをして李東垣にからみ始めた。、
「あらら、こちらのお方かっこいいわねー。いい服着ちゃって、どちらのおぼっちゃんかしら。あははは、、、ひっひっひっ、、、それでは私をおよめにしてちょーだいっと。」、
そういうと李東垣の肩にわっとしなだれかかった。、
「これなにをする。」、
李東垣はとっさのことで訳が分からなかった。かつ困惑したので彼女の身体を振り払った。女は怒りを露にするとこういったのだ。、
「なんだってんだい。金持ちのお坊っちゃんかなんかしらないけどよー。何をすましてんのさ。冗談じゃないわよ、、。よしわかった、そんなにツンツンおすましなら、わたしがあなたにお口移しでお酒のましたげる。はいウーン。」、
女がそう言い終わり李東垣の口に自らの唇を近づけるやいなや、李東垣はその顔を振り払い、大声ですかさずこうさけんだという。、
「これ女、聞くがいい、私はこの真定と河間で有名な李家のものである。(こう言うだけでこの辺ではやくざや妖怪までも縮みあがり、チンピラは平伏するというすごい効果を発揮するので、これは彼の口癖だった。)、
いくら妓女とはいえ無礼は許さん。見よ、そちが触れただけでこの服は淫病の邪毒でけがれてしもうたではないか、、、。よって焼き払うことにするぞ。見ておるがよい。これこの通りじゃ、、、。」、
こう言うと何を血迷ったか李東垣はみんなの目の前で服を全部脱いでしまった。やがて火打ち石で、下男にそれに火をつけさせ、テーブルの上で自分の服をメラメラと全部焼いてしまったのだ。女と同級生はあっけにとられるやら、恐れ入るやら、盛り上がった宴会もしらけて散会となってしまった。、

、又ある時、この地方の名士が一堂に会し、朝廷の使節を歓待する席での事。、
、この府の地方長官が李東垣が若いくせに妙に道徳の備わった意外な堅物であり、その上、下戸であると聞き、いたずら心から芸者に一言ふくませて、彼に無理矢理、酒を飲ませようとした。李東垣は相手が官吏なので辞退するわけにも行かず、無理をしてホンのおちょこに一杯、必死の思いで飲み干した。しかしやがて気分が悪くなり、その席で吐いてしまい、ふらふらになってそこから退席したという。その後彼が同席の者達の嘲笑の的となったのは言うまでもない。そう李東垣とはこの様に、どうしようもなく本当に可哀想なくらい気真面目で実直な男であったといえる。、

、一方、学術方面での李東垣の業績は目を見張るものがある。彼は(皇帝の詔勅を書く役所)の王氏よりその学問である「論語」「孟子」などを習い、翰林院の学士のより「春秋」を習い受け、その天才ぶりを発揮している。、そのうえ李東垣は自分の家の庭の空き地に学校を建て、遠方より儒教の教授を招聘し人々にその講義を聞かせたという。、
、またここに集う学問の徒で貧乏なものには学費や生活費をも提供し助けたという。、彼は貧困で苦しむものに出会えばそれを救済し、特に泰和年間(1201~1208)、ここらあたりに飢饉が発生した折、人々は難民と化した。李東垣は自らの財産を投げ出してまで、これらの人々の多くを助けたという。、

、さてあるとき李東垣の母の王氏が病気で寝込んでしまった。郷里の多くの医者が診察に訪れたが、彼らの言う温、涼、寒、熱、という概念はまちまちで、いろんな薬物を全て試した後、寒涼の薬をとって病状が悪化して、とうとう何の病気を患ったかもわからずに亡くなってしまった。李東垣は大いに悲しみ、自分が医術を知らなかったことをこの時非常に後悔したのだった。そしてある時、一大決心をして友人にこう語ったという。、
「もし有名な医者に出会えるなら、私は必ず努力して医学を勉強する。私が医学を知らないために母を亡くしたことは、一生私自身忘れる事はないだろう。」、
、その後李東垣は人のうわさで易水地方に「潔古」という老人の医術がすばらしいことを知るにいたる。、
、この老人、本名を張元素(字を潔古、金代の易州人である。8才の時に科挙に参加したという天才であるが、その後に教堂の掟に背き放逐される。それから後、医道に励み劉河間の患った難病を治療した話は有名である。)、
といい、聞くところによれば彼の医術とその名は天下に鳴り響いるという。さっそく李東垣は多くの金銀財宝と絨毯や織物(いわば束修そくしゅう授業料でしょうか)を持ってこの潔古先生こと「張元素」を訪れた。、弟子入りを果たした李東垣は張元素の下で数年に渡り医学の研鑽を積み、その全てを学び取るに至った。、
、彼はその後、国家に莫大な金銀を送り、ある一つの官職を買い求めたのである。、
(当時は地方の小官吏のうちでも、李東垣のなったこの「税吏」などといった職はほとんどお金で買えたのだ。また科挙の国などと言うがそれに合格できない奴はこれも又金で買っている。またこれは封建社会の歴史であるが、いわゆる金元時代の中国の医者というのは当時、身分の低い者が成る職業であった。よって李東垣も医学は学んだけれど医者なんかになって、身分を落として治療費で生活しようなどとはゆめゆめ思ってもいない。彼の家は大地主である。傷寒論の張仲景にしても長沙のお代官様である。前回伝記の竇黙に至っては現在の大統領補佐官に相当する。この様に昔の名医の多くは医者の他に当時としては別の職業を持っていたのだ。)、
、それは済源県という所の税吏であったが、さて当時彼が赴任したその村にちょうど伝染病が流行した。この伝染病は一名を「大頭瘟」又は「大頭天行」といい、症状は患者の自覚症状としてはまず身体全体が冷え上がり重たく感ぜられ、頭面部にだんだんと水腫が広がり始める。やがて目も開けられない状態となり、上喘し、口が渇くといったもので、当地の医者達は何度も何度も各種医学書を繰り返し読んでこの病気について調べてみるが一向にらちが明かない。どの本にもこの病気の治療方法は載っていないのである。そのあげく彼らは自分の経験から瀉下薬を乱用し、それで効果が見られなくても、さらに瀉下法で治療していた。、
、医者の誤治によって続けざまに実に多くの病人が死に追いやられていたのだ。この薮医者共は彼らが行っているこの治療法が誤治であるとさえ気が付いていない、さらにこの情況を悪化せしめているのは患者さえこれを誤治と気づいていなかった事である。、
、これには李東垣の心はひどく傷ついていた。ついに彼は寝食を忘れてこの病の病状に基づき病原を探りはじめた。来る日も来る日も患者の症状を観察し病因を追い求めていたのだ。、
、そんなある日の事、とうとうある方剤を病人に飲ませたところ、とても良い効果が上がったのである。その方剤の名前は普済消毒飲といった。、
、そこで特に彼はこの方剤の組成を長期の保存に耐えるよう木の板に彫りつけた上で、さらにこれを印刷し人の多く集まる交通の要所に張り付けたのだ。およそこの方剤を服用して効果の上がらなかった患者はおらず、当時人々はこれを神仙が授けてくれた秘方であるとし、石碑を建てて長く残そうとした。、
、李東垣は初めは医学で名を成そうなどとは思いもよらなかったし、人々も彼が医術に精通しているとは思ってもいなかった。、
、しかし当時李東垣がべん梁(現在の河南省の開封)に戦火を逃れて疎開しているときに、宦官や官僚の病をあちこちで治療した。その中でも特にその効果が明らかな治療方法や方剤はことごとく記録に残されている。、

、その後彼は1232年に戦火を避けて黄河を渡り、柳城にいたり、その後山東省の東平県に仮の住居を定めた。そこにしばらくいた後、彼は再び1244年(李東垣65才の時)にその故郷、河北省正定県に戻っている。、
、さてそんな故郷のある日のこと、彼の家には友人の周徳父が遊びに来ていた。彼は長年、李東垣の友人であったが、その時李東垣は彼にこう言ったのだ。、
「あんさんはワシがまだ若い、まだ若い、などと言うがのう。わしゃもう老いぼれ、、、しかしこのワシが学び得た医学をどうしても後世に残そうと考えておるのじゃよ。でもなかなか適当な人材がみつからんでのう、、、どうしたものかと思てるところじゃよ。」、
「その件じゃが、、、廉台という所に羅天益というものがおる。字を謙甫といい、彼なら真面目で人柄も誠実で、いつも自分は医業についてはいるがその術がまだ未熟であることを残念に思っているそうだ。医学についてもそれ相応の覚悟もある様だし、あんたが弟子に自分の医術を伝えたいならこの人物こそふさわしいと思うがのう、、、どうじゃな?この男、、、。」、
「あんさんがそうおっしゃるなら、ほな(では)いちど会うてみまっか、、、。」、
、そのときは李東垣は彼を弟子にしようとは言わなかったが、とにかく一度会ってみることにした。、
、幾日が過ぎて周徳父は羅天益らてんえき、
(後にモンゴル帝国皇帝フビライカーンの奥御医師となる人物。大体1220年から1290年頃の名医。著作に「衛生宝鑑」等があり、前回の伝記の竇漢卿針灸大師は後に羅天益に「流注指要賦」と針灸の補瀉の手技を教授する事となる。)、
を伴って李東垣の家を訪れた。羅天益が李東垣の前に深々と頭を下げたとき師匠の李東垣は頭越しに彼にこの様にきつく尋ねたという。、
「あんさんがここに来て医学を勉強しはるのはどんな医学でっか。銭儲けのために医者に成りたいんでっか。それとも誠実な、医学を発展させる様な医者に成りたいんでっか、いったいどっちじゃ、さあ、はっきり言わっしゃい。」、
、この厳しい李東垣の言葉には、隣に坐っていた周徳父も驚いて羅天益の方を見た。しかし突然のことに驚いた様子もなく、羅天益はきっぱりこう答えたという。、
「誠実な、医学を発展させる様な医者になるつもりです。」、
羅天益の言葉が終わるやいなや、膝を扇子でピシャッと叩き李東垣はこう言ったという。、
「よろしおま。(いいですよ)」、
つまりその一言は李東垣に付いて医学を勉強してよいという事を意味していた。、

さて羅天益の毎日の食費は全て李東垣に頼っていた。やがて3年が過ぎ、李東垣は羅天益が長期に渡る学習に、いささかの態度の乱れを見せないのを感心に思い、白銀20両を彼に与えてこう言ったという。、
「ワシはあんさんの家が貧乏なんをよう(よく)知ってまっせ。あんたがひょっとしてお金のことで意志が揺らぎ、途中で医学をほりだす(投げ出す)かとおもて心配でなあ、、、このお金で奥さんと娘はんに美味しいものでも食べさしてあげなさい。喜びはりまっせ。」、
(ニコニコと笑って師匠は中国語の河北弁で言うのである。)、
「師匠、とっ、、、とんでもない。私は師匠の金のために勉強しているのではないのです。」(当然である。羅天益はこの時しまったと思ったが後の祭りで、しかし師匠のこの一言に何か目頭に熱いものを感じたのも、また事実である。)、
「ええやおまへんか、たまにはええもん(いいもの)食べんと病気しまっせ。それに医者の不養生は体に毒だっせ。」、
「しかし日々の生活費は全て師匠に出して頂いております。その上、この様なことはこの羅天益、お受けいたしかねます。」、
「あんさんなー。よーく考えてみるとなー、、、ウっ痛っ。」、
しばらく李東垣は何か下を向いて考えているようだったが、さらに続けてボソボソとこう言った。、
「えーか、、、わしゃなー、、、今胃が痛いんやけど。それはともかく、あんたにワシの一番大切な医術のすべてを教え与えたんだっせ。そんなあんたに今更、なんでお金みたいなしょうもない物、けちってどないしまんねんな。」、
「しかし、、、これはおかしいのでは、、、。」、
「しかしも、お菓子も、おまへん。ここにあるのは金だけや、ほれ受け取りはれ。」、
、李東垣はイライラすると頭と胃が痛むという持病があったのだ。、
、これ以上、病気持ちの師匠に逆らっても仕方がないと思った羅天益はこのお金をありがたく受け取り、涙をこらえ、師匠に心の中で静かに手を合わせたのであった。、
、さて李東垣が死の間際に今まで書き溜めた著作をまとめて一冊の本にして、彼の邸宅の大きな客間のテーブルの上に種類別にして並べていた。その時、傍らの羅天益に向かってこう言ったという。、
「この本はみんなあんたにあげまっさ、しかしのう、これはこの李東垣の為でなく、またあんさん羅天益の為でもない。ほな誰のためや。そう、後の世の人々のためや。つまりこの膨大な書籍は慎重に扱い、万が一にも失うことの無いように頼むぞ。そして多くの人にこれを広め代々伝えさせて、人々の健康のために役立たせるのじゃ。よいかそちの任務は重いと言えるぞ、わかったな。」、
、李東垣は72才(1251年、陰暦2月25日)で、ついにこの世を去ったのである。後に皇帝の侍医になる羅天益は後に人にこの様に語っている。、
「李東垣先生の教えの一言一言はいまでもはっきり耳にこびりついたように離れない。まして臨終の時の様子はいまでも瞼の裏に浮かぶようである。、
あー、この偉大な李東垣の医学を今後、継ぐ者があるのだろうか」、
、ところでこと李東垣の医学を継ぎたい読者の為にその著作を紹介しておく。「内外傷辨惑論」「脾胃論」「蘭室秘蔵」「傷寒会要」などがある。また確かではないがその著作であると伝えられているものには「用薬法象」「保嬰集」「傷寒治法挙要」「治法機要」「東垣心要」「万愈方」「医説辨惑論」「瘡瘍論」「李東垣薬譜」「医方便儒」「医書」「医学法門」「霊台秘蔵」などがある。また弟子の羅天益がまとめたものには「東垣試効方」が代表作としてあげられる。特に鍼灸家で彼に興味がある人は「脾胃論」と高武や鍼灸大成の「東垣鍼法」を研究してみては如何であろうか。、

           金元鍼灸八家伝    今村隆神鍼しんぜん 著

 そもそも昔は「鍼灸家」というナンセンスな言葉はなく、針灸といえば医療であり、つまりは医者だった時代である。そのころはなんと言っても(現在でもそうであるが)「素問霊枢」なくしては東洋の医療はなりたたず、湯液家も「傷寒論」や歴代医家の著作と共に、この理論に頼っていたのである。しかし実際はその書の理論及び臨床応用は、すべて今で言う「はり、きゅう」と法律書に書かれる我々針灸治療家の為に書かれたものである。、
、ここで私が「針灸八家伝」と書いたのは、金元時代の有名な滑寿「十四経発揮」の著者や王執中「針灸問対」の著者などはともかく、特に「針灸」中心の治療をしていた医者の中で前々回のこと「竇漢卿」以外の日本にあまり知られていない金元時代のユニークな人物を幾人かここで紹介したく思ったからであり、さらに針灸が単に湯薬の補助的手段ではないことを強調しておきたかったからである。針灸は「気を動かす」という点においては薬よりも直接経絡に作用するものであり中薬の帰経という問題に関していうなら、針灸が湯薬よりも作用が劣るということは決してないと言える。むしろある種疾患に対しては針灸のみで劇的な作用を引き起こせる、優位性があるという事をここに明記しておく。、

、(一)席弘、
、は中国の針灸流派としては比較的大きな一派である席弘派の開祖である。字を宏遠といい号をという。南宋の江西省の人で、先祖は宋王朝の太医院の針灸医官であったが、女真族の侵入で宋の高宗とともに南方に逃れたという説もある。南宋の首都が杭州になった時、一族は江西省の臨川という所の席坊というところに移り住み、代々針灸を受け継いできたという。針灸の「」は彼、席弘の作であると言われている。、
、彼の家庭は代々の鍼灸医でその鍼灸術は家伝である。さて長きに渡って彼の家の家伝は公開されなかったのだが、席弘から数えて10代目の席肖軒(信卿)の弟子に一族以外の陳会(宏綱)という者が出て師伝となる。流派の系図を書くと以下の如くである。()は師伝。


1席弘2席霊陽3席玄虚4席洞玄5席松隠6席雲谷7席索軒8席雪軒、9席秋軒10席順軒12席伯珍、10席肖軒11席天章、
(13)陳会


というわけでこの流派の鍼灸術はその歌賦「席弘賦」の中に見る事ができる。尚この流派には道教的色彩が強く道教の方術との密接な関係がうかがえる。ただこの13代目の陳会以降は師伝となるため丹飲血盟(つまり仙人になる為の仙丹を飲み、鶏の血をのむ事。)し、同門の一種の技術の流出を防いでいた。、

、(二)聞人耆年、
、聞人耆年ぶんじんきねんは南宋の時代、中国南方の現在の浙江省、県の西南部の人物である。中国灸の名著「備急灸法」はこの人の手によるものであるが、身分、年齢、いつ生まれ、いつ死亡したのかさえ解っていない(こんな事で良く伝記を書く気になったと叱られそうだが、今回は紹介文である。このような人物が案外良い治療を行っているともいえる。)ただ解っているのはこの本が出版された年で1226年であること、それにこれが聞人耆年の晩年の著作であること、つまりこの序文には彼は生まれ故郷にてすでに針灸医を40年から50年行っているとの記載がある。するとここから逆算すると1170年頃の生まれではないかと思われる。、
、さてこれは急証つまり救急の灸法の集大成である。見たところこの本は彼の日常の臨床の成果であるらしい。歴代の医家の灸法を網羅しており、、
20余種の疾患についての記載がある。、
灸に興味のある方は必読の書である。、

、(三)杜梁曹とりょうそう、
、杜梁曹は浙江省金華人である。幼き頃より読書し科挙のための勉強に励む。しばらくし医業を志し、竇大師(竇黙こと竇漢卿)の鍼灸術の門人となり針灸を収めたとしている。恐らく彼が金華人であることから、上記の王開か王国瑞の門人の一人であろうと推察される。杜梁曹は今の福建省あたりで30数年、鍼灸医を開業しており、周囲の住人はほとんど彼の治療を受けていたという。さらに彼の診療所の前の道路は門前市を成すが如しであり、患家の馬車や馬でいっぱいだったという。彼は諸侯であろうが貧民であろうが同じように治療し、一度も怒ったことが無かったので、人々に好かれ、老人から子供まで行くところ行くところに知り合いがいた。みんなは彼を杜公とよび親しんだという。、
、、、

(四)劉執中、

、劉執中は字を仲和といい標幽賦の竇漢卿の優秀な弟子である。彼は1242年、モンゴルの生まれである。もともとは漢族であり現在の河南省開封市がその一族の出身地である。その父、劉安は金王朝の武人で将軍にまでのぼった人物である。金滅亡後、一家は黄河を渡り現在の河北省大名に移り住むこととなる。、
、劉執中は少年の頃から大志を抱き、成人してからは主に勉学に励み学業を積み重ねていた。さてそのころ、同じ大名に住む鍼灸家でフビライ皇帝の側近でもあった人物竇漢卿に気に入られ、その娘を嫁にして竇漢卿の全ての学術(儒教)を継承した。彼はまた竇漢卿の儒教の学問以外にも彼の針灸学やその技術をも受け継ぎその名を天下に知らしめた。、
しかし彼の医療技術やその記録は現在では知ることができない。かえって竇漢卿と同じく彼は政治家として業績を残した人物であると言える。、
至元十年1273皇太子がの推薦に賛成され、彼の宮廷勤めが始まる。初めは医官として東宮に詰めていたのだが、それからはフビライカーンの朝議の決定により元政府の地方高官として活躍することとなる。1296年今の福州にて病死する。当年55才であった。





  (五)王国瑞




 王国瑞は字を瑞庵といい十三世紀から十四世紀にかけて活躍した鍼灸家である。彼は、蘭渓県(現在の浙江省金華県)の生まれである。彼は一応、竇漢卿の弟子の王開の息子ということになっている。つまり一般に王開はもともと中国南方の医者で北京にのぼり竇漢卿の弟子になりその医学を受け継いだということになっているが、どうもこれには疑問があるようだ。しかし実際には王開が竇漢卿の著作をその治療の中心理論に用いたことは間違いないので師弟関係はなくとも受け継いだとも言え無くもない。、
、さてこの父のことはさておき、本人の王国瑞であるが「扁鵲神応針灸玉龍経」の著者であり、その内容は針灸の(針灸取穴を歌にした物)である。彼は幼き頃より父の王開に付きその鍼灸術を学ぶ。そして一人前の医者になった後には、その子、王延玉、孫の王宗沢、それに弟子の周仲良に医術を伝授する。おもに今の江西省、浙江省にて医業を行うが、江西省にて開業した時、劉性というものが王国瑞の治療を受け全快したことから貴族達が争って彼と交際したという。また人々は彼を神医とし、弟子になりに来る者や、交際を求める学者が絶えなかったという。王国瑞は父より受け継いだ竇漢卿の鍼灸術を南方で広め、広く世人の健康のために尽くしたと言える。、
、彼の著作にはこの「扁鵲神応針灸玉龍経」の他に、その父王開と一緒に竇漢卿の著作に注釈を加えた「銅人鍼経密語」などがある。




(六)郁徳之、(七)郁継善、





 郁徳之は現代の大倉(今の江蘇省)の人物である彼はその父郁秀岩と幼き折から治療に同行し、家伝の医術を学んでいた。後に彼の名声はあたりに響きわたりその医者としての名声は相当に高かった。、
、郁継善はこの郁徳之の子である。彼は鍼灸術に優れ、よく針を使って救急の疾病を治療したという。私は実際的系譜としては竇黙の鍼灸術はこのあたりに最も正確に伝わっているのではないかという気がするのだが。さてこの郁継善、その鍼灸術は劉伯淵より伝授されたものとされている。劉伯淵は竇黙(竇漢卿)の真の弟子である。ただ彼の生い立ちやその他は資料が少ないため明らかではない。、
、郁継善の子、郁震は字を鼎文と言い、彼の医術は明朝の初期に有名であったという。やがて都の朝廷にまで召し出され、その後蘇州の医学校で教鞭を執ることとなる。



、(八)李浩、


、李浩は金元時代の医家である。字を巨川といい先祖は山東省の曲阜の出身である。五代前の先祖は山東省、徒勝県で官吏をしていたらしい。彼の祖父や父は共に儒学で名を成していたが彼は医学に長じていた。
、成人して開業してからは倉公を尊敬し(このあたりから針灸に興味が出たのであろう。)もっぱら現在の山東省東平あたりで医業を行っていたようである。その治療は神の如くであり、竇漢卿が東平にて官吏となった折にその知己を得たという。また彼は淮南にいたころに竇漢卿に鍼灸術を伝授し、実際には竇漢卿の師匠に当たる人物である。、
、後に竇漢卿が中央政界に進出した後に、元のフビライに彼を推挙したが彼が当時あまりにも年が行き過ぎていたので用いられず、元政府の役所から終身にわたって禄もらい、元政府の客分となった。
 この様に金元時代の中国の針灸家の系譜をたどっていくと、当時竇漢卿こと竇黙の鍼灸術の流伝が多いことにお気づきであろう。今回は金元四大医家以外にもこの様な針灸の流れがあったことを少し紹介してみた。

        十四経発揮の滑伯仁   かつはくじん 滑寿伝          今村神鍼 著

滑寿は字を伯仁といい中国、元の時代(1304年から1386年)の針灸の大家である。日本では「十四経発揮」「難経本儀」などの著者として有名である。、
、もともとこの一族は許州嚢城(現在の河南省嚢城県)に住んでいたが彼の祖父が元朝に仕え、江南にやってきたことから一家は儀真(現在の江蘇省、儀征)に移り住んだ。彼滑寿はここで生誕する事となる。、
、彼は幼き頃より真面目で賢い子供だったという。主に「詩経」「礼記」などを学び、伝えられるところによれば一日千字を暗記したという。やがて文章や詩を自分で作りその水準はすばらしいものであったらしい。幾年かして科挙の年齢に達した彼は一応科挙を受験するが、その志を全うするに至らなかった。これは別に滑寿の弁護をするわけではないが、元の時代はモンゴル人や色目人アラブ人が多く官吏の職に就いていたため、漢族が官吏となれる枠が大変に狭く、それに合格するものは至難の業であったからである。故に儒教を捨てて医学を勉強するものが後を絶たなかった。また金元時代の初期は戦乱が多く、政権が安定に欠いていたため、官吏登用のチャンスも少なかったのだが、しかしこれがかえってこの時代に多くの名医を排出した原因とも言える。、
、さて当時の京口(現在の江蘇省鎮江)の名医王居が旅行でたまたま儀真に赴いた折、滑寿はこの師匠に弟子入りし、伝統医学の聖書である「素問」「難経」などを学び、すぐさまそれを会得したという。ところでこの時、師匠王居との間で交わされた質問ノートが彼、
の著作「読素問鈔」「難経本儀」の基礎であるといってもよい。その後、東平(現在の山東省東平県、李東垣や李浩、その他多くの名医がここで治療している。)の高洞陽から針灸を学び、開合流注や方円補瀉を学んだと言う。彼は又、奇経八脉の任脉と督脉に対して独特の見解を示し、後世に受け継がれている理論を述べた書「十四経発揮」を1341年(彼が37才の時)にフタイビリー(中国の少数民族、女真族)の著書「金蘭循経」を基として著すこととなる。彼はこの様に薬だけでなく特に針灸に優れた名医となったのである。、、
、彼は医者を始めてからは名前を滑に変えた。臨床に於いては針灸と薬とを同様に用い、良く患者を治したので中国の江南地方や浙北ではやがて名医と呼ばれ始めた。、
、そんなある日のこと、ある僧が病を患い滑寿の所へやってきた。まるで発狂したように譫言を言い、人を見れば鬼に見えるようだという。滑寿が脉診するとその脉はハトムギが転がるようであり、また時には脉が喘ぎ停止し又拍動し始めるといったものだった。彼はこれは「陽明胃実」であるとし、こういった。、
「だいたいやね。(素問)によると、陽明は肉を主し、と言うようにその経気は旺盛なんですな。これがひどくなると服を脱いで屋根に上がりまして辺り構わずののしりますな。、
というわけでこの坊さんにはこの薬をお出ししましょう。」、
と三化湯を3、4付処方した。、
、またある時、徐という者の妻が寒疝(病名の出所は金匱要略、腹満寒疝宿食病脉証治である。腹中がひきつり臍を中心にして、痛み冷や汗が出る。悪寒し、四肢が冷え、ひどい者はしびれ感が出る。)を患った。臍から心臓にかけて膨満感と疼痛があり、両脇にも痛みがあり、嘔吐し、煩悶感があり、飲食できない。滑寿が診察したところ両手の脉が沈でその拍動が不規則である。寒邪が下焦にあるのでそれを取り除くことに決定した。灸を章門、気海、中完、に行い、玄胡索、官桂、胡椒、佐薬にや諸香、茯、青皮、等を用い、その上で十日に一度は温利丸を服用した。やがて聚は散り病は癒えたという。、

、余姚の儒教の大家の宋という者が今でいうマラリアの様な病を患った。すでに粥さえも飲めない状態がもう60日程続ていた。滑寿はこれを聞きつけ往診すると脉は数で両関脉はやや弦である。久病で身体は弱っているが精神は健全である。、
「脾に熱がおますな(有りますね)。それが食欲を阻害している。治療法は下法でんがな。」、
これに周囲の医者は不審に思い彼を非難した。、
しかし2剤を服薬した後、症状の半分はとれ、その後、甘露飲や柴胡、白虎などの方剤を与えると20日以後、完全に回復した。、

、秋天のある日、滑寿は幾人かの友人を伴って近くの庭園に遊びに行った。すると知人より一人の裕福な婦人が難産で苦しんでいて、滑氏に往診を求めているという。さっそく滑寿がその家に駆けつけたのだが生憎薬を持ってきてない、どうしようかと思い悩んだあげくその家の前の長い石段を駈けのぼっているとき、滑寿はとっさに一枚の楓の葉っぱを拾ってその家の下僕に渡しこう言ったという。、
「これをはよう(早く)行って煮出して病人に飲ませなはれ。」、
、しかしこの時、滑寿がこう言い終わるやいなや、患家から別の下僕が滑寿のいる階段の上に出て来てこちらに向かって大声でこう叫んだ。、

「先生、妊婦はすでに一人赤ん坊をお生みになられました。」その後この家の親戚や知人に彼はこの楓の方剤について、どの医学書に載っている方法かをしつこく尋ねられた。その時滑氏曰く。、
「だいたいやね。医とは意ですな。(倉公の言葉である)したがって治そうと思えば(意念さえあれば)どんな方剤でもありえるんやね。十月十日も過ぎて子供が出てけえへんのは、秋の気が不足してまんねや。そこでや。私はこの秋の楓の落ち葉の気で、子供をこの美しく紅い木の葉のようにポトンと生まれ落とそうとしたんやがな。つまり秋の気の不足を補うことでんな。」、
(偽薬を使った暗示療法である。名医扁鵲もこの方法をよく使っていた。)、
、滑寿は一生の内色々なところを往診しながら放浪する事となるが、彼は行く先、行く先で名前を変えている。例えば淮南では滑寿といい、呉では伯仁と称した。また越(現在の浙江省寧波、紹興一帯)では患者は貧富年齢を問わず治療にあたり報酬を追い求めなかった。、
、伝え聞くに、滑寿の本来の姓は劉といい元の末期は余姚(今の浙江省)に定住する事となる。このころは時代が荒廃していたので、彼はまだ名前を変えて住んでいた。当時、朱元璋(明の太祖)の部下の劉基とは兄弟で、その弟の劉基はよく兄の彼の下に遊びに来ていたらしい、幾度も滑寿に後の明の皇帝となる朱元璋に仕えるように勧めたが、滑寿はこれを断り続けたという。彼の子孫は今でも余姚や武林(現在の杭州)付近に住んでいるが、
杭州に住んでいる者はその後栄えたという。

 かつて古代中国には人智を越える名医達が活躍していた。これ等伝説が彼らの、医術の片鱗を現代に蘇らせる布石となれば幸いである。


                  著者、今村隆神鍼

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